妊娠高血圧症マウスの衝撃
高血圧症は、年齢とともに慢性的な症状として現れる生活習慣病と捉えられていますが、比較的若く健康な女性がしばしば妊娠中に中毒症になるととは古代ギリ シャ時代から知られていました。今でいう妊娠高血圧症候群です。長い問、妊娠・出産 におけるトラブルは仕方のないことだと考えられており、研究対象になり難い病気でしたが、医療技術や衛生環境が整わない地 域や少子化が進む社会では、妊娠中のリスクは大きな問題です。
ヒトの遺伝子をマウスの受精卵に注入す ると、ヒトの遺伝子を持ったマウス(トランスジェニックマウス)が生まれます。このマウスは人間と同じように年を取ると高血圧症になるので、これをモデルにして、高血圧症が遺伝子由来で起こるとを証明しようと考え、研究を始めました。その過程で偶然 見つけたのが、妊娠中に高血圧症になったマウスです。そもそも哺乳類の多くは、妊娠中に血圧が上がるとはありません。ヒトの遺伝子を持ったために、とのような症状が現れたのです。
1996年に論文発表した妊娠高血圧症マウスの発見は、世界中の研究者に大きな衝撃を与えました。その後の研究で妊娠高血圧症は、加齢による高血圧症とは発症のメカニズムが異なることや、母親と胎児との間の物質のやりとりがカギを握っているとも分かってきました。世界初、そして唯一の妊娠高血圧マウスの登場が、妊婦や子ども用の治療薬開発や安全な出産に対するケア拡充への期待を高めています。
栄養素と遺伝子の密接な関係
病気の治療に効果があるのは薬だけとは限りません。ビタミンなどの栄養素が効く場合もあります。糖分や脂肪分といった栄養素が、血圧も含めた健康維持と密接に結びついていることを考えれば、その重要性は明らかです。加齢や妊娠によって代謝は大きく変わります。各栄養素の機能や体内での変化、適正な摂取バランスなどを解明するため、栄養素の代謝を遺伝子と関わりから調べています。
特に注目しているのがメチオニンというアミノ酸です。体内で作ることができず、食品から摂取しなければならない必須アミノ酸で、どんな生物でも、たんぱく質を合成する際の末端、つまり出発物質はメチオニンと決まっています。メチオニンが欠乏すると、遺伝子の発現に異常を来します。たった一つのアミノ酸が遺伝子の働きを変えてしまうのです。
食や健康の面での栄養関連の研究は、ほとんど完結していると考えられていましたが、遺伝子レベルで見直してみると、これまで知られていなかった栄養素の姿が現れてきます。さらに研究が進めば、食育などの考え方も変わっていくかもしれません。
線虫で採る代謝と寿命
遺伝子研究のモデル動物といえばマウスがまず思い浮かびます。ヒトと同じ哺乳類で体の構造も似ており、様々な遺伝子操作を施したモデルマウスが作られています。約2年というマウスの寿命も多くの研究にとっては好都合。しかしそれは、代謝や寿命の研究においては長過ぎるのです。
そこで登場するのが線虫です。分類上はヒトとは程遠い線形動物に属する、体長1ミリほどの小さな生物ですが、遺伝子の構成や代謝の仕組みは驚くほどヒトと似ています。寿命も数十日程度と短く、全遺伝子に対するミュータント(変異体)がそろっているので、マウスより格段に扱いやすいモデル生物です。
日本人の平均寿命は徐々に延び、男女ともに80歳を越えましたが、生命体としての限界はあるのでしょうか。線虫は、ある1つの遺伝子が変異するだけで、寿命が2~3倍に延びると分かっています。ヒトに置き換えると200歳ぐらい。この遺伝子はヒトも持っていますから、線虫での研究は重要です。加齢に伴う栄養素の代謝に着目して遺伝子の変化を追ってみると、アミノ酸、つまりメチオニンの働きに再びたどり着きます。メチオニンを手掛かりに、生物の寿命を決める要因を探っています。
出会いがもたらす研究の好循環
妊娠高血圧症マウスの発見から10年経ち、研究に行き詰まりを感じていた頃、二つの大きな出会いがありました。一人は、アメリカ行きの機内で偶然隣の席に座っていた産婦人医。同じ学会に向かうところでした。妊娠高血圧マウスの論文を授業に使っていると聞き、大いに励まされました。この研究は自分の研究室でしかできないこと、その成果を待っている人がいるとに気付いたのです。
もう一人は、あるシンポジウムで講演をした際に、同じく演者として参加していた線虫の専門家です 。線虫を 使ってみないかと提案され、学生たちも連れて泊まり込みで線虫の扱い方を習いました。これは研究の幅を大きく広げました。
研究室には若手研究者 、企業からの社会人大学院生、他大学も含め多様な背景を持った大学院生など、多くの研究者たちが集まってきます 。スタッフも含めると総勢判名近い大所帯です 。彼らとの出会いも大切な財産。研究上の困難を乗り越えるヒントをくれるのはいつも「人」です。それは必ずしも 権威ある研究者や劇的なイベントとは限りません。妊娠高血圧マウス、線虫、そして研究室をめぐる人々との出会いが、研究活動の好循環を生む原動力です。
深水昭吉教授(生命環境系)