生命環境系 大森 裕子 助教
海は、二酸化炭素の巨大な貯蔵庫だといわれます。海水中の二酸化炭素を活用して、植物プランクトンは光合成を行い、糖などを含む多様な有機物を生産します。植物プランクトンは、動物プランクトンや魚などに食べられます。その死骸や排泄物は、バクテリアなどによって分解され、二酸化炭素へと戻っていきます。その一方で、分解されなかった死骸は、マリンスノーとなって沈下し、海底に降り積もっていきます。海洋と大気とのダイナミックな物質循環が成立しているのです。
大森さんは、海水中の微生物由来の有機物が海洋生態系の中でどのように循環しているかという動態の研究からスタートしました。海水中の有機物としては、上記の光合成産物のほかに、溶存態有機物と呼ばれるものがあります。溶存態有機物がもつ炭素量は、陸上植物の炭素量に匹敵し、地球上で重要な炭素の貯蔵庫としての役割をもっています。したがって、大気中の二酸化炭素量増加に伴う地球温暖化を考える上で重要な存在です。しかし、その成因と動態には多くの謎が残されています。
「小っちゃい生きもののくせになんて大きなことしてるんだと、日々驚いています」と語る
溶存態有機物は植物プランクトンの光合成を出発点としています。光合成によって作られた溶存態有機物の多くは、バクテリアに取り込まれて分解されます。大森さんによれば、それらは「おいしい」有機物であり、物質循環のサイクルに乗っていきます。ところが、海水中に存在している溶存態有機物の大半は、バクテリアにも利用できない、いうなれば「おいしくない」有機物です。この「おいしくない」有機物が、数百年から数千年もの間、海水中に大量に滞留しているのです。しかし、そもそもこれを作っているのはどの生物なのかさえ、長らくわかっていませんでした。現在は、大森さんの先生にあたる濱健夫教授などの研究により、バクテリアの代謝産物らしいことがわかってきました。つまりバクテリアは、有機物の分解者であるのと同時に、「おいしくない」有機物の生産者でもあるということになります。大いなる謎を秘めた海洋にふさわしい、とても面白い発見です。広大な海の中でバクテリアが作り出している溶存態有機物の挙動を調べるために、大森さんたちは、下田臨海実験センターに設置した400リットル、20リットルの海水タンクを用いた実験を行っています。
大学院を修了した大森さんは、一時、国立環境研究所の博士研究員となり、海と大気の相互作用に関する研究に従事しました。植物プランクトンやバクテリアが生成する硫化ジメチルという物質を追ったのです。ちょっと硫黄くさい、独特の磯の香り、その元が硫化ジメチルです。硫化ジメチルは海水に溶けにくいため、溶けきれなかった大量の硫化ジメチルが大気中に放出され、酸化されて、やがて硫酸塩に変化します。そしてこの硫酸塩が雲の元となる粒子になり、雲の形成につながるといわれています。つまり、海洋の小さい微生物によって作られる有機物が、地球の気象に影響を及ぼしているのです。大森さんたちは、研究観測船に乗り込み、硫化ジメチルの海洋から大気への放出量を実計測する新しい手法を開発・実用化しました。そして、硫化ジメチルの放出量に関する従来の推定値と大森さんたちの実測値の比較を行い、気候システムモデルの質向上に貢献しました。
大森さんが海に興味をもったのは、中学2年のときに、三宅島で開かれたサマースクールに参加したことがきっかけでした。海洋生物学者の指導で海と山の観察会を楽しんだ大森さんは、すっかり海の魅力にはまってしまったとか。三宅島の火山噴火が起こる前年のことで、その後、思い出がなおいっそう美化されたような気がするそうです。大学では海の生き物を研究したいと思うようになっていたところ、筑波大学には「生物学類」というコースがあり、そこでは「水圏生態学」という分野を学べることを知りました。濱先生との出会いでした。南極海に行くという夢は未だに実現していませんが、これまで参加してきた太平洋の観測航海はわくわくの連続です。船上での観測や実験室で行う培養実験を通して、小さな生きものが大きな海でやっている仕事を追跡しながら、日々驚きに打たれているそうです。