芸術系 稲葉 信子(いなば のぶこ)教授
1955年 愛知県生まれ
1990年 工学博士(東京工業大学)
1991年 文化庁文化財保護部建造物課文化財調査官
2000年 文化財保存修復研究国際センター(ICCROM) 日本政府派遣職員
2002年 独立行政法人文化財研究所東京文化財研究所
国際文化財保存修復協カセンター保存計画研究室長
2003年 独立行政法人文化財研究所東京文化財研究所
国際文化財保存修復協カセンター企画情報研究室長
2008年 筑波大学大学院人間総合科学研究科教授
2010年 筑波大学大学院人間総合科学研究科世界遺産専攻長
2012年 筑波大学大学院人間総合科学研究科世界文化遺産学専攻長
文化遺産・自然遺産の保護と世界遺産条約
国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が設立されたのは1946年。その根拠となるユネスコ憲章には、設立目的の一つとして「世界の遺産を保存・保護するための必要な国際条約を勧告する」ことが掲げられています。これが、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」という形で具体化されたのは1972年。長い時間がかかりました。
2度の世界大戦とその後の復興プロセスの中で、多くの貴重な文化遺産が失われてしまいました。また戦争が起きて壊されることになってはいけない。文化遺産の保護は、平和構築のプロセスとも関係してユネスコの重要な役割です。しかし、資金をどこから集めるか、誰が何をするのか、その仕組みを考えることはどうも容易ではなかったようです。ただしその間にユネスコは何もしていなかったわけではありません。まさに武力紛争時に文化遺産を守るための条約が1954年に、また文化遺産の不法輸出入を止めるための条約が1970年に、それぞれ必要に応じて個別に作成されています。現在の世界遺産条約は、1960年代にエジプトのヌビア遺跡を国際キャンペーンで開発から守った経験をもとに、国際協力のための恒常的な仕組みがやはり必要であるとして準備が始まりました。文化遺産の保護はまずはその国の問題です。ある国の文化遺産について、他の国が守るよう要求することは主権侵害になります。しかし、国際条約に基づいて各国政府が主体的に申請し登録された文化財であれば、他国がその保護を支援する理由が成立します。世界遺産条約は本来、制度や資金が不十分な国々で危機に瀕している文化財を国際協力で守るという目的を持っているのです。
政策ツールとしての世界遺産条約の役割
世界遺産の定義は「世界の人が共通して守るべき顕著な普遍的価値を持つもの」。美しいものや高価なもの、鑑賞するためのものとは限りません。当初は、国際的にもよく知られた古い遺跡や建築だけが登録されていましたが、世界各地のマイノリティの文化も大事にしようという考えから、また欧米への偏重を改めようとの考えから、世界の文化と自然の多様性を改めて見つめなおす方向にシフトしてきています。それは1990年代に入ってから始まりました。
これは、遺産保護の国際的な潮流とも呼応しています。文化遺産保護のすそ野が広がり、文化遺産をオリジナルの状態で厳密に維持管理する凍結保存だけでなく、人々の生活や地域の発展を阻害せずに街並みや景観を保全する「持続可能な開発」に貢献する文化遺産・自然遺産も重要だというコンセプトです。前者は専門家の仕事ですが、後者の場合は、地域住民を巻き込んだまちづくりのプランニングが不可欠です。
地域おこしや観光地のブランドとして世界遺産登録を目指すのは世界的傾向ですが、その申請は政府にしかできません。世界遺産に申請するということは、観光客の流入も考慮した地域の発展と文化資源•自然資源の保全を両立させる長期的な開発ストラテジーをつくると、その国が国際的に約束することなのです。
国際専門家の役割
世界遺産はブランドとして定着しました。それは制度が成長した証でもありますが、文化遺産・自然遺産の保護の機能がきちんと果たされているかというと、まだまだ問題は山積しています。条約の理念が忘れられ単なる観光ガイドになりかねない懸念はもとより、新興国の台頭に伴う無秩序な開発競争や、世界各地で勃発する武力紛争によって、世界遺産も含めた多くの宝が今も破壊され続けています。
世界遺産委員会では2012年、マリ共和国での紛争に際して、このような破壊行為にする非難声明を出しました。けれどもその効力がどこまで及んだのかは分かりません。長年、国内の申請準備や世界遺産委員会での登録審査に携わり、この声明の作成にも参加した国際専門家としては、歯がゆい思いもあります。
毎年、20~30件の世界遺産が新たに登録される中で、世界遺産に対する考え方も少しずつ変化しています。ユネスコや国際専門家は国際関係や世界経済も踏まえて、世界の文化財保護ニーズを見極めると同時に、危機的な状況にある文化財の保護や持続可能な開発という本来の目的に立ち返って、これからの世界遺産条約の方向性を見直す岐路に立っています。
持続可能な開発のカギは「仕掛け人」
文化遺産の保護というと、美術品の修復などの職人的技能をまずはイメージしがちですが、広くニーズがあるのは国際協力や地域おこしのコーディネートができる人材。例えば、遺跡の保護を支援しようとすると、発掘調査だけでなく、その文化的価値の評価、建築の保存・修復、周辺地域のインフラ整備、さらには観光開発まで含めた総合的な活動が期待されます。それぞれの専門家を集め、地元の人々も交えてコラボレーションをしなければ、適切な文化財保護や持続可能な開発はできません。それを実現するカギは全体のコーディネーター、「仕掛け人」の存在です。
仕掛け人は、その地域の事情に精通しているだけでは務まりません。建築・土木・化学•生物・環境・考古•美術制作などの分野の基礎的な素地の上に、文化財や自然資源の保存、公共政策、国際協力といった知識も持つ、まさに学際的な専門性が要求されます。
世界遺産条約の理念は、規模の大小にかかわらず、世界中のまちづくりや文化財保護活動のお手本になるものです。仕掛け人としての専門人材を育てつつ、文化遺産・自然遺産を守るという本来の役割に加え、自らもフロントランナーとして持続可能な開発の理想形を追求しています。