#009 栄養・出産・寿命 遺伝子に刻まれた「普通の営み」の暗号を解く

代表者 : 深水 昭吉  

生命領域学際研究センター(TARA) 深水 昭吉(ふかみず あきよし)教授

1959年 東京都生まれ(札幌で育つ)
1983年 筑波大学第二学群農林学類卒業
1985年 筑波大学修士課程環境科学研究科修了
1987年 筑波大学博士課程農学研究科単位取得退学
     筑波大学助手 遺伝子実験センター
1990年 筑波大学講師 応用生物化学系
1994年 米国ソーク生物学研究所
1995年 筑波大学助教授 応用生物化学系
1999年 筑波大学教授 先端学際領域研究センター
    (2010年~ 生命領域学際研究センター)
2002年 文部科学省21世紀COEプログラム拠点リーダー(生命科学)
2011年 文部科学省新学術領域研究「転写代謝システム」領域長


妊娠高血圧症マウスの衝撃

 高血圧症は、年齢とともに慢性的な症状として現れる生活習慣病と捉えられていますが、比較的若く健康な女性がしばしば妊娠中に中毒症になることは古代ギリシャ時代から知られていました。今でいう妊娠高血圧症候群です。長い間、妊娠・出産におけるトラブルは仕方のないことだと考えられており、研究対象になり難い病気でしたが、医療技術や衛生環境が整わない地域や少子化が進む社会では、妊娠中のリスクは大きな問題です。
 ヒトの遺伝子をマウスの受精卵に注入すると、ヒトの遺伝子を持ったマウス(トランスジェニックマウス)が生まれます。このマウスは人間と同じように年を取ると高血圧症になるので、これをモデルにして、高血圧症が遺伝子由来で起こることを証明しようと考え、研究を始めました。その過程で偶然見つけたのが、妊娠中に高血圧症になったマウスです。そもそも哺乳類の多くは、妊娠中に血圧が上がることはありません。ヒトの遺伝子を持ったために、このような症状が現れたのです。
 1996年に論文発表した妊娠高血圧症マウスの発見は、世界中の研究者に大きな衝撃を与えました。その後の研究で妊娠高血圧症は、加齢による高血圧症とは発症のメカニズムが異なることや、母親と胎児との間の物質のやりとりがカギを握っていることも分かってきました。世界初、そして唯一の妊娠高血圧マウスの登場が、妊婦や子ども用の治療薬開発や安全な出産に対するケア拡充への期待を高めています。

栄養索と遣伝子の密接な関係

 病気の治療に効果があるのは薬だけとは限りません。ビタミンなどの栄養素が効く場合もあります。糖分や脂肪分といった栄養素が、血圧も含めた健康維持と密接に結びついていることを考えれば、その重要性は明らかです。加齢や妊娠によって代謝は大きく変わります。各栄養索の機能や体内での変化、適正な摂取バランスなどを解明するため、栄養素の代謝を遺伝子との関わりから調べています。
 特に注目しているのがメチオニンというアミノ酸です。体内で作ることができず、食品から摂取しなければならない必須アミノ酸で、どんな生物でも、たんばく質を合成する際の末端、つまり出発物質はメチオニンと決まっています。メチオニンが欠乏すると、遺伝子の発現に異常を来します。たった一つのアミノ酸が遺伝子の働きを変えてしまうのです。
 食や健康の面での栄養関連の研究は、ほとんど完結していると考えられていましたが、遺伝子レベルで見直してみると、これまで知られていなかった栄養素の姿が現れてきます。さらに研究が進めば、食育などの考え方も変わっていくかもしれません。

線虫で探る代謝と寿命

 遺伝子研究のモデル動物といえばマウスがまず思い浮かびます。ヒトと同じ哺乳類で体の構造も似ており、様々な遺伝子操作を施したモデルマウスが作られています。約2年というマウスの寿命も多くの研究にとっては好都合。しかしそれは、代謝や寿命の研究においては長過ぎるのです。
 そこで登場するのが線虫です。分類上はヒトとは程遠い線形動物に属する、体長1ミリほどの小さな生物ですが、遺伝子の構成や代謝の仕組みは驚くほどヒトと似ています。寿命も数十日程度と短く、全遺伝子に対するミュータント(変異体)がそろっているので、マウスより格段に扱いやすいモデル生物です。

 日本人の平均寿命は徐々に延び、男女ともに80歳を越えましたが、生命体としての限界はあるのでしょうか。線虫は、ある1つの遺伝子が変異するだけで、寿命が2〜3倍に延びることが分かっています。ヒトに置き換えると200歳ぐらい。この遺伝子はヒトも持っていますから、線虫での研究は重要です。加齢に伴う栄養素の代謝に着目して遺伝子の変化を追ってみると、アミノ酸、つまりメチオニンの働きに再びたどり着きます。メチオニンを手掛かりに、生物の寿命を決める要因を探っています。


出会いがもたらす研究の好循環

 妊娠高血圧症マウスの発見から10年経ち、研究に行き詰まりを感じていた頃、二つの大きな出会いがありました。一人は、アメリカ行きの機内で偶然隣の席に座っていた産婦人科医。同じ学会に向かうところでした。妊娠高血圧マウスの論文を授業に使っていると聞き、大いに励まされました。この研究は自分の研究室でしかできないこと、その成果を待っている人がいることに気付いたのです。
 もう一人は、あるシンポジウムで講演をした際に、同じく演者として参加していた線虫の専門家です。線虫を使ってみないかと提案され、学生たちも連れて泊まり込みで線虫の扱い方を習いました。これは研究の幅を大きく広げました。
 研究室には若手研究者、企業からの社会人大学院生、他大学も含め多様な背景を持った大学院生など、多くの研究者たちが集まってきます。スタッフも含めると総勢40名近い大所帯です。彼らとの出会いも大切な財産。研究上の困難を乗り越えるヒントをくれるのはいつも「人」です。それは必ずしも権威ある研究者や劇的なイベントとは限りません。妊娠高血圧マウス、線虫、そして研究室をめぐる人々との出会いが、研究活動の好循環を生む原動力です。