足立和隆 准教授
「この人は江戸時代の顔だなあ、あの人は南方系かな。」常日頃、そんなことを考えてしまうという足立先生。先生は、「自然人類学(Physical anthropology)」を専門とする、人体のスペシャリストである。体育系に所属し、普段は体育学専攻の学生に骨や筋肉を中心とした解剖学を教えている。そして、生物学類向けに開講されている講義“人類学”のコーディネーターをされているのも足立先生だ。この講義では、国立科学博物館の人類研究部門に所属する第一線の研究者達が週替わりで登場する。毎週ワクワクするようなお話が聞ける、人気講義のひとつである。 人類学は「文化人類学」と「自然人類学」とに分けられる。このうち、自然人類学とは、一言で説明すると「ヒトを対象とした生物学」であり、ヒトの自然史を進化と変異の両面から明らかにすることを目的としている。人間の本質に迫るこの学問領域から見えてくる、現代のわたしたちに必要な価値観とは、何だろうか?
●思いがけぬ自然人類学への転換
学部時代は東京農工大学に在学。研究対象はカイコの幼虫で、当時まだ黎明期であった動物行動学に感化され、カイコの配偶行動の神経生理を卒論テーマとしていた。その一方で、時間に余裕のあった1、2年生の頃には、東京教育大学(現・筑波大学)出身の体育学の先生の研究室に出入りしていたという。この先生は人類学的な研究もされており、その手伝いとして本物の人骨の観察や胎児の頭蓋骨切片の顕微鏡写真の撮影・現像に明け暮れた。そして、時間を見つけては、研究室の本棚にある人類学関係の本を読んでいた。これが、「人類学」との邂逅であったという。
4年生になったある日、進学先を決めるため立ち寄った事務室で人生の転機が訪れる。募集要項、東京大学大学院…人類学専攻、定員5名…昨年度実績3名…「ひょっとしたら受かるんじゃないか」と思った彼は受験を決め、見事合格。これを機に、研究対象は「昆虫」から「ヒト」へと変わった。その後、修士課程、博士課程ではヒトの歩行の進化について研究し、博士論文では足の裏の圧力を測る装置の開発等を行った。
●突然の誘い、アフリカ・マリでの3ヶ月間
1991年 ――博士論文を書いていた時のことである。所属研究室へ、文化人類学者の川田順造先生から「西アフリカで調査をしているのだが、ヒトの体の寸法を測れる若い人はいないか」とのお声がかかる。彼がマリへ発ったのは2月1日、博士論文口頭審査の2日後のことだった。湾岸戦争の頃、電気もガスも水道もないマリで3ヶ月間、およそ50項目にわたる人体各部分の寸法について、数百もの現地人を測り続けた。さらに、数十人の様々な姿勢の写真や動作のビデオ撮影も行った。マリの人のかかとは幅が広く、裸足で生活しているため、足の裏は釘を踏んでも通らないほど皮膚が固いと言う。そして、面白いことに、靴を履いていないにもかかわらず外反母趾も見られたというのだ。外反母趾の原因には遺伝的な要因も関わっているのかもしれない。そんな意外な発見の続く、刺激的な経験だったそうだ。
●日本のいじめ問題 ――カギを握るのは「人類学」
2017年4月から、全学類対象の「自然人類学」という講義を受け持つ足立先生のメインテーマは“ヒトの共通性と多様性”である。これまでに数々の人類を観察し続けてきた先生が、このテーマにかける想いは強い。
「昨今、いじめ問題がありますね。要は、お互いに個性があって違うということ、これを知っておかなければいけないんです。」
いじめ問題の根底には、大多数の人と違った“個性”を嫌う差別意識が根付いてしまっているのだ。先生はこう続ける。
「けれど、基本的なこと、例えば胃がここにあって腸がここにあって、っていうのは共通していますよね。だから、人間における共通の部分と多様な部分を学んで欲しい、そしてこのことを形態レベルから遺伝子レベルまで網羅して理解して欲しい、というのが自然人類学の講義の目的です。」
また、足立先生は日本において自然人類学が十分に浸透していない点を問題視している。日本では、ヒトの違いについて意識することは少ない。ところが、例えばアメリカ合衆国は民族や国籍の多様性が大きいため、どの大学に行っても自然人類学の講義があり、きちんと授業で必修になっていると言う。社会へ出る前にヒトの共通性と多様性を知っておくことの必要性がよく分かる話だ。
「日本でももっと早いうちに、例えば小学校・中学校で、人間の共通の部分と多様な部分について教えるべきだと思います。日本では、中学や高校でさえも、ヒトの解剖図が載っているのは保健体育の教科書ぐらいで、それも図だけが載っていて、なんとその解説がないんですよ。」
●あなたの祖先から身体の特性まで ――色々学べる講義「人類学」
自然人類学を専攻とする課程を持っている大学は、日本では東京大学と京都大学にしかない。そのため、教える人は少なく、認知度が低いうえ研究結果が金銭に繋がらない。ましてや、骨をはじめとした人体の解剖学的な細かい特徴の知識が必要で、すぐに結果が出てお金になる方へ行きがちな学生には敬遠される分野だと言う。しかし、いざ蓋を開けてみると自然人類学はとても身近な学問だということが分かる。“あなたとわたしはなぜ違うのか”。このことを少しでも理解しておくために、極めて重要であると言えるだろう。
生物学類開講「人類学」の授業はオムニバス形式で、親しみやすい身近な話から専門的な研究結果まで、幅広く学ぶことが出来る。ヒトの定義は「直立二足歩行を行う動物」であるが、まずその進化について、化石をもとにした研究から「猿人」、「原人」、「旧人」、「新人」を紹介していく。そして場所は日本に移り、日本の洪積世から縄文・弥生時代に至る人々について、環境がどのように人類進化に影響したのかということを、食生態の変化から解説する。次に、ヒトの遺伝学の人類学への応用について概説し、実際に中南米の人々の過去から現在に関して、遺伝学の観点から分析した研究を紹介する。その後は、ヒトの身体構造、機能、行動の特性を力学的に探究するバイオメカニクスの観点から説明し、その特性がどのような適応の過程を経て獲得されたのかについて考えていく。足立先生は、このミクロな視点からマクロな視点まで幅広くカバーした授業構成により、「人類学という学問は色々なことをやっているのだ、ということを知ってもらいたい」と言う。
●“知的好奇心”を満足させよう -高校生へのメッセージ-
灯台下暗しという言葉があるように、自分自身のことはよく分からない。ただし、「今ここに自分があるということは、綿々とその遺伝子が引き継がれている」というのは確かである。じゃあ、今まではどうだったんだろう? そもそも人間はどこから来てどこへ向かっているのだろう? こんな人類学の大きなテーマにも関心を持ってみて欲しい、と先生は語る。また、人間に関わることは何をやっても人類学。日本の人類学の研究における強みは、病気に限らず、体質の遺伝にも着目している点だ。例えば、耳アカが湿っているか乾いているかについて決定する遺伝子を最初に報告したのは日本人である。足立先生は、今まさに研究の世界へ足を一歩踏み入れようとしている高校生諸君に向け、こう語った。
「社会の役に立たないって言ったらそれまでですけど、“知的好奇心を満足させる”、これは人間にとって大事な部分だと思うんですね。今は実利に走って、大学の研究なんかもすぐ結果が出てすぐお金に繋がるようなところにシフトしていますけれども、そうでない部分も大事なんじゃないかと思います。高校生の皆さんにも、もっと自由に長い目で見て、自分の知識をどんどん増やしていって欲しいですね」。
●自主性の重要さ ―生物学徒へのメッセージ―
また、足立先生は生物学類の学生の問題点として、「先生のプロジェクトのひとつの歯車とした研究が多い」と指摘している。つまり、なぜ自分がその研究をやっているのか? その研究は全体の中でどんな位置付けか? 更に、科学・生物学のどういったところで重要となってくるのか? こういった根本的な部分が分からない状態の学生が多いというのだ。そのため、単に先生から言われた手順を繰り返して実験するだけではなく、違った視点で自らの考えを持って視野を広げて欲しいと言う。そして、自分の考えを持って議論を交わすには知識による裏付けが必要となってくるため、積極的に啓蒙書を読んで欲しいと語った。単純なキーワードで知識が広がるインターネットという現代の強みも利用して、情報を取捨選択する能力を身に着けることが出来たなら、視野はぐんと広がるだろう。
●人類の向かう未来、あなたの向かう未来
“マイクロエボリューション”という言葉があるように、江戸時代から現在に至るまで日本人は少しずつ変わってきている。身長は伸びているし、頭の形は前後に短く、顎は退化して三角形の顔になっているそうだ。このままいくと、数百年後には“逆おむすび型”の顔になるのではないかと予測されていると言う。また、柔らかいものを食べることで顎がやせ細るのに対し、歯の形や大きさは遺伝で決められているため、将来は歯並びがますます悪くなる。これにより、歯科矯正が儲かる世の中になるのではないかと考える足立先生。そう、いくつかの起こり得る未来は、知識で予測出来るのである。人間はどこから来たのかというテーマから、現在を生きるわたし達の共通性と多様性、そして、これから先に待ち受けている人間の未来について。時間に沿った縦の流れと、そこから繋がる横への広がり、この両方を見ることが出来る学問が、人類学なのだ。
足立先生曰く、「一番大切なことは観察力と好奇心」。これは学者に限らない。誰にだって養える大切な財産である。あなたの心に、ちょっとした人体の疑問が湧いたことはないだろうか? 数百年後、人間がどう変化するのかもっと知りたくはないだろうか? そのイメージを忘れないで欲しい。知識と観察力と好奇心が、きっと、その疑問に答えてくれるだろう。
【取材・構成・文 及川泉(生物学類4年)】