ファンの判断を重視する心理
2012年の元旦、ある全国新聞の紙面に、昨年のAKB総選挙で第1位に選ばれた前田敦子さんのインタビュー記事が掲載されました。その中で、彼女はこう語っています。「プロデューサーにセンターで歌えといわれても、どうして自分なんだろうと不安があった。でもファンに選んでもらって、ここに居ていいんだと思えました。」彼女は、自己評価にあたって、自分を起用してくれたプロデューサーの判断よりも、自分を応援してくれる無名のファンたちの判断に重きを置いているようです。
前田敦子さんがここで言及しているプロデューサーとは、他ならぬ秋元康さんのことです。AKBのメンバーにとっては、いつも「先生」と呼んでいる神様のような存在なのに、その彼の評価だけでは安心できない。民意を100パーセント反映した選挙の結果がなければ、自分は不安だと言うのです。これは、現代の人間関係を考える上で、非常に示唆的な発言だと思います。
プロに対する信頼性の低下
かつての芸能界では、プロデューサーの言葉に絶対的な重みがありました。それは専門家からの評価として、社会的な権威への信頼に裏づけられた言葉だったからです。しかし今日では、そのプロの判断も信頼できなくなっています。その点では、AKB総選挙を支えている感性は、なにもファンだけのものではありません。AKBのメンバーもまた同様なのです。プロによる評価が、自己肯定感の基盤にならなくなっているのです。
皆さんは、立川談志という噺家をご存知ですか。2011年に亡くなってしまいましたが、日本の落語界では大家と言われた人物でした。その彼は、あるとき自分の落語が観客に受けなかった寄席で、「今日は客のレベルが低い!」と喝破したそうです。おそらく芸の達人としての自負から出た言葉だったのでしょう。しかし、噺家にかぎらず今日の芸人たちが、このようなプロとしての自信を抱くことは難しいに違いありません。
多彩になった評価の物差し
浜崎あゆみさんの曲の歌詞に、「僕が絶望感じた場所に、君は奇麗な花見つけたりする」という一節があります。たとえ同じ光景を眺めていたとしても、その見え方や感じ方は人によって千差万別だというのです。おそらく皆さんは、それが当然のことのように思っているでしょう。しかし、意外かもしれませんが、以前の日本人は、それほど千差万別な存在ではありませんでした。だから、しばしば「あ・うん」の呼吸でと表現されたように、わざわざ自分の思いを言葉で表わさなくても、自然と相手に伝わりやすかったのです。
ところが今日では、人びとの価値観が多様化して、寄って立つ判断根拠から普遍性が失われています。立場が違えば、評価基準も異なるようになっています。だから、自分の思いも「あ・うん」の呼吸では相手にうまく伝わらず、コミュニケーション能力がクローズアップされるようになっています。当然ながら、アイドルのどこに魅力を感じるかも、ファンによって千差万別です。そこに共通の評価の物差しは見当たりません。
今日、AKBのファンたちが、それぞれの押しメンを盛り上げようとお互いに競い合うのも、だからこそのことでしょう。お互いの価値判断をめぐって、このように混沌とした状況がなければ、総選挙や握手会のようなイベントも、けっして成功しなかったはずです。その意味で、まさに時代精神を的確に読んだ戦略だといえるでしょう。
多様化がもらたした人間関係のフラット化
このように考えてくると、前回のエッセイで指摘した今日の人間関係のフラット化は、人びとの価値観の多様化とともに進んできた現象だといえます。ある特定の価値観だけが優位に立つのではなく、多種多様な価値観がお互いに併存しあうようになったため、それを反映して人間関係もフラットなものと感じられるようになったのです。かつては歴然と輝き、人びとを導いていた理想の喪失が、人間関係のフラット化の背景にあるのです。
今日、プロによる専門的な判断が尊重されなくなり、その存在自体が憧れの対象ではなくなってきたのも、おそらくそのためでしょう。むしろ当事者としての経験にもとづいた素人感覚が重視されるようになっています。だから、特定の価値観にもとづいて権威を振りかざす人物は、かえって胡散臭く見えてしまうのです。次回は、この点についてもう少し掘り下げて考えてみましょう。