エリートスポーツの現場において、予期せぬ困難やプレッシャーに適応する力はいかにして培われるのでしょうか。東京成徳大学の夏原隆之准教授、新潟医療福祉大学の秋山隆之准教授、筑波大学の中山雅雄教授らの研究グループは、世界的なサッカー指導者であった、故 イビチャ・オシム氏のコーチング実践を対象に、意図的にストレスや負荷を与えるトレーニング戦略である計画的混乱(Planned Disruption)の内容と、それが選手やチームにどのような変化をもたらすと捉えられていたかを明らかにした研究成果を発表しました。
本研究では、2003年から2006年にかけてオシム氏を支えた5名の日本人コーチへの詳細なインタビュー調査を実施し、その語りを分析しました。その結果、オシム氏は(1)不安定な練習場所、(2)不確定な競争条件、(3)意図的な予測不能性、(4)多次元的な負荷、という4つの手法を組み合わせていたことが見出されました。
これらの実践は、単に選手を追い込むための「厳しさ」ではなく、試合中の不確実な状況への習熟や、高度な状況判断力(ゲーム・インテリジェンス)、自律的な問題解決能力の向上、さらにはチームが自律的に連携を深める自己組織化を促すための戦略的な環境設計として、コーチたちに解釈されていました。本成果は、熟達した指導者が練習環境を動的に調整し、選手の心理的・身体的・技術的な適応力を引き出すプ
ロセスを、実用的な観点から浮き彫りにしたものです。
一方で、こうした混乱の活用は、選手の安全とウェルビーイングを考慮した支援的な環境を前提としてお
り、不適切な指導とは明確に区別される必要があります。本研究は、不確実な状況に対応できる力をいか
に養うかという、スポーツ指導やコーチ教育における新たな知見を提示しています。
本研究成果は、Human Kinetics社の学術誌『The Sport Psychologist』において、2026 年7 月21日付で
公開されました。
■ 研究成果のポイント
1.
サッカー界において、世界的な名将として知られるイビチャ・オシム氏が、トレーニングにおいてど
のような計画的混乱を用いていたか、またそれが選手やチームにどのような影響を与えたと解釈
されているかを、5名の日本人元アシスタントコーチへの詳細なインタビューから調査しました。
2.
オシム氏が用いた混乱は、「不安定な練習場所」「不確定な競技条件」「意図的な予測不能性」
「多次元的な負荷」の 4 タイプに分類されました。特に、サッカーのような不確実性の高い競技の
トレーニング状況において、ルール操作による「予測不能性」や、身体的・知的な負荷を同時にか
ける手法(多次元的な負荷)は、本研究で提案された新たな視点です。
3.
4.
トレーニングにおいてこうした戦略を用いることは、選手の「慣れ(ストレス耐性)」「ゲームインテリ
ジェンス(状況判断力)の向上」「心理的適応能力の強化」「チームダイナミクスの促進」に繋がる
と、共に活動したコーチたちによって解釈されました。
指導者が練習環境を固定せず、意図的に不確実性を操作することで、選手の自己組織化や適応
力を促せる可能性が示唆されました。ただし、これは選手の安全や心身の健康を考慮した支援
的な環境において慎重に設計されるべきことが示唆されました。適切なサポートを欠いた過度な
負荷は、逆効果になるリスクがあることが示唆されています。
■ 研究の背景
エリートスポーツの世界では、選手は常に高いプレッシャーにさらされていますが、そうした環境下でも高
いパフォーマンスを発揮するための能力は不可欠です。近年、これらを養う手法として、トレーニング状況を
意図的に不安定にする計画的混乱と言われる手法が注目されています。これは、評価や罰則で心理的負
荷をかける従来のプレッシャートレーニングとは異なり、練習の構造や環境をあえて崩すことで、予期せぬ
事態への適応力や回復力を高めることを目指します。
しかし、この手法の実践に関する知見はまだ乏しく、サッカーのように状況が刻々と変わるオープンタス
クの競技において、指導者が具体的にどのような意図で混乱を設計し、現場に適用しているのかは詳しく
分かっていませんでした。そこで本研究は、熟達した指導者であるイビチャ・オシム氏の独創的な指導の事
例に着目しました。オシム氏を支えたコーチ陣への聞き取り調査を通じて、学術的な視点から計画的混乱
の具体的な活用方法の解明を試みました。
■ 研究内容と成果
【研究方法】 本研究は、スポーツ現場での実用的な知見の創出を目指す、実用主義的(pragmatic)な研
究パラダイムを採用しました。分析対象としたのは、イビチャ・オシム氏が日本で指揮を執った 2003 年から
2006 年の期間です。この時期に同氏を間近で支えた 5 名の日本人アシスタントコーチに対し、一人あたり
約 90 分の詳細なインタビュー調査を行いました。収集された膨大なデータは、テーマ分析(thematic
analysis)によって精査され、指導の意図や選手への影響がどのように認識されていたかを整理しました。
【研究結果】 分析の結果、オシム氏は練習環境に意図的に混乱を生じさせるため、主に以下の 4 つの
手法を組み合わせていたことが語られました。
1.
2.
3.
4.
不安定な練習場所:整備不十分なグラウンドでの練習など
不確定な競争条件:チーム内序列の打破や、数的不利での試合設定
意図的な予測不能性:練習ルールの突発的な変更や即興性の推奨
多次元的な負荷:身体的疲労下での複雑な意思決定の要求
これらの手法による成果に関して、アシスタントコーチたちは選手やチームに起きた肯定的な変化を次の
ような「適応力の進化」として捉えていました。
◼ 個人レベルの変化:プレッシャーを日常に変え、自律して動ける選手へ
• 逆境への慣れ(習熟):劣悪な環境や予期せぬルール変更を「当たり前の日常」として受け入れ、ど
んなストレス下でも動じずに実力を発揮できるタフさが養われました。
• 判断のスピードと質の向上(ゲームインテリジェンス):常に思考を強制される環境により、情報処理
スピードの向上や、2手先、3手先の展開を予測する高度な状況判断力が発達しました。
• 自ら考えて行動する力(自律性):監督の指示を待つのではなく、選手自らがピッチ上の課題に気づ
き、解決策を見出し、選手として主体的に準備・行動する姿勢が強化されました
◼ チームレベルの変化:指示がなくても「あうんの呼吸」で連動する集団へ
• コミュニケーションの活性化:練習のルーチン(決まりきった流れ)をあえて崩すことで、選手同士の
対話が必然的に増え、チーム内の連携や信頼関係の輪が広がりました。
• 自分たちで解決する組織(自己組織化):複雑な制約の中で練習を繰り返すうちに、細かな指示が
なくても選手間で「独自の決まり事」や解決策が共有され、チーム全体が状況に応じて自然と連動
するようになりました。
■ 今後の展開
本研究は、特定のエリートサッカー環境におけるアシスタントコーチの回顧的な語りに基づくものであり、
オシム氏本人の直接的な意図そのものや、選手が実際にどう感じていたかまでは調査できていません。ま
た、特定のエリートレベルでの事例であるため、あらゆる年代やレベルにそのまま適用できるわけでもあり
ません。そのため、今後は、選手側の視点や、異なる競技レベルでの効果の検証が望まれます。
イビチャ・オシム氏の「あえて負荷をかける」指導法:計画的混乱が選手を育てる!? 単なる厳しさではない、科学的視点から見た「適応力」を引き出す負荷の与え方
代表者 : 中山 雅雄