宇宙で変わる「バランス感覚」の正体を解明 ―耳の重力センサー「球形嚢」が適応の鍵だった―

代表者 : 村谷 匡史  

宇宙飛行士は長期間宇宙に滞在すると、地球へ帰還した直後にふらつきや転倒しやすくなることが知られています。しかし、その原因となる耳の平衡感覚器官がどのように変化するのかは、これまで十分に分かっていませんでした。福井大学学術研究院医学系部門の安部力教授、岐阜大学大学院医学系研究科の森田啓之名誉教授、筑波大学医学医療系の村谷匡史教授らの共同研究グループは、国際宇宙ステーション(ISS)に長期間滞在した宇宙飛行士と、ISS で35日間飼育したマウスを対象に解析を行い、耳の平衡感覚器官のうち「球形嚢」(注1)が宇宙環境で選択的
に変化することを世界で初めて明らかにしました。また、宇宙飛行士では帰還直後に球形嚢の機能低下と姿勢バランスの低下が認められ、その一部は微弱な前庭電気刺激(noisy GVS)(注2)によって改善することも示しました。
本研究は、宇宙環境に対する前庭器官(注3)の適応メカニズムを明らかにした初めて
の成果です。将来の月・火星探査における宇宙飛行士の健康管理やリハビリテーショ
ン技術の開発だけでなく、高齢者の転倒予防や前庭疾患の新たな治療法の開発にもつ
ながることが期待されます。
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〈研究の背景と経緯〉
人は地球上で生活する中で、重力を利用して姿勢を保ち、歩行や視線を安定させて
います。この重力情報を感知しているのが、耳の奥にある前庭器官です。しかし、宇宙
空間では重力刺激がほとんどなくなるため、多くの宇宙飛行士は地球帰還後にふらつ
きや歩行障害などの平衡機能障害を経験します。今後、アルテミス計画や火星探査な
ど、より長期間の宇宙滞在が計画される中で、その原因を明らかにし、予防法を開発す
ることは重要な課題となっています。
これまで、宇宙飛行によって前庭機能が変化することは知られていましたが、耳の
どの感覚器官が変化しているのか、その分子メカニズムはほとんど分かっていません
でした。その理由の一つは、耳の前庭器官が非常に小さく、宇宙実験で得られた限られ
た試料から詳細な遺伝子解析を行うことが技術的に困難だったためです。
研究グループは、国際宇宙ステーション(ISS)で35日間飼育したマウスから、耳
の前庭器官である球形嚢と卵形嚢(注4)を個別に回収し、それぞれの遺伝子発現を解析
できる独自の技術を開発しました。これにより、宇宙環境によってどの器官が最も影
響を受けるのかを分子レベルで調べることが可能となりました。
さらに、本研究でマウスから得られた知見がヒトにも当てはまるかを検証するため、
ISS に 157~328 日間滞在した宇宙飛行士を対象に、平衡機能や球形嚢・卵形嚢の機能
を詳細に評価しました。マウスで見いだした分子レベルの変化と、宇宙飛行士で認め
られた生理機能の変化を統合することで、宇宙環境に対する前庭器官の適応メカニズ
ムの解明を目指しました。
〈研究の内容〉
ISS で35日間飼育したマウスの球形嚢と卵形嚢についてRNA-seq解析(注5)を行い、
宇宙環境による遺伝子発現の変化を比較しました*1。その結果、球形嚢では数百種類の
遺伝子の発現が変化していた一方、卵形嚢では大きな変化は認められませんでした(図
1)。さらに、変化した遺伝子を詳しく解析したところ、神経細胞間の情報伝達を担う
シナプス機能や、神経回路の適応に関わる遺伝子群が多く含まれていました。また、球
形嚢では、通常は卵形嚢に特徴的な遺伝子発現パターンへ近づく変化が認められ、微
小重力環境に適応するために分子レベルで再構築(リモデリング)が起こっているこ
とが示唆されました。
次に、ISS に 157~328 日間滞在した宇宙飛行士を対象に、VEMP検査(注6)を用い
て球形嚢と卵形嚢の機能を評価しました*2。その結果、球形嚢の機能を反映するcVEMP
は地球帰還直後に有意に低下していたのに対し、卵形嚢の機能を反映する oVEMP に
は明らかな変化は認められませんでした(図2)。さらに、半規管機能を評価する温度
刺激検査(カロリックテスト)でも異常は認められず、宇宙飛行による影響は耳の前庭
器官全体ではなく、球形嚢に選択的に生じていることが明らかとなりました。また、宇
宙飛行士の姿勢バランスを評価したところ、地球帰還直後には重心動揺が増加してい
ましたが、微弱前庭電気刺激(noisy GVS)(注7)を行うことで姿勢バランスは有意に改
善しました。
以上の結果から、微小重力環境では耳の前庭器官全体が一様に変化するのではなく、
球形嚢が選択的に変化することが明らかになりました。また、マウスで認められた球
形嚢の分子レベルでの変化と、宇宙飛行士で認められた球形嚢機能の変化は、球形嚢
が宇宙環境への適応に重要な役割を果たしている可能性を示しています。
〈今後の展開〉
本研究により、宇宙環境では耳の平衡感覚器官のうち球形嚢が選択的に変化し、こ
れが宇宙飛行士の一時的なバランス機能低下に関与することが示されました。今後は、
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球形嚢で変化した遺伝子や神経回路が重力環境への適応に果たす役割をさらに詳しく
解析し、その分子メカニズムの解明を進めます。また、本研究で有効性が示された微弱
なnoisy GVS について、月・火星探査など長期宇宙滞在後のリハビリテーションへの
応用を目指すとともに、加齢に伴う平衡機能低下や転倒リスクの高い高齢者、前庭疾
患患者に対する新たな予防・治療技術としての応用も期待されます。