私たちの体内では、細胞の表面にある「受容体」(センサー分子)がさまざまな情報を受け取ることで、生命活動を維持しています。中でも「G タンパク質共役型受容体(GPCR)」は、多様な疾患における治療薬の標的として最も注目されているタンパク質ファミリーです。受容体の働きを理解するため、従来は特定の受容体の働きを止める「阻害薬」が使われてきました。しかし、阻害薬には、狙った受容体以外のタンパク質にも作用してしまう、オフターゲット効果(思わぬ副作用)という大きな課題がありました。そのため、薬を投与した際に観察された現象が「狙った受容体の働きによるものか」、それとも「薬の余計な作用によるものなのか」を見分けることが非常に困難でした。名古屋大学未来社会創造機構、大学院工学研究科の清中 茂樹 教授、松岡 佑真 博士後期課程学生らの研究グループは、東京科学大学生命理工学院生命理工学系の北尾 彰朗 教授、筑波大学医学医療系の水野 聖哉 教授、高橋 智 教授との共同研究により、薬の“余計な作用”の影響を受けずに、標的とする GPCR 本来の機能だけをクリアに解き明かす新技術「ESCAPE法」を開発しました。本技術により、低酸素状態において神経細胞が突起を伸ばすメカニズムを明確にしたほか、ゲノム編集技術を用いて、生体内と類似する環境下でも本技術が機能することを確かめました。本成果は、GPCR を標的としたより安全で効果的な疾患治療法の開発や、脳機能・神経疾患の解明に大きく貢献すると期待されます。
本研究成果は、2026年10月3日午前0時(日本時間)付で米国の学術雑誌『CellChemical Biology』に掲載されます。
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【研究背景】
ヒトの細胞膜上に存在するGPCRは、ホルモンや神経伝達物質など多様な刺激を受け
取って細胞内に情報を伝える役割を持ち、「細胞のセンサー」として機能する重要なタン
パク質です。市販されている医薬品の約 30%が GPCR を標的としており、がんや神経
変性疾患(パーキンソン病やアルツハイマー病など)の治療標的として、GPCR に作用す
る薬の開発が精力的に進められてきました。
GPCR は、生体内に存在するホルモンや神経伝達物質が結合する深い「くぼみ」を持っ
ています。「阻害薬」と呼ばれる人工的な分子の多くは、GPCR のくぼみに結合し、ホルモ
ンや神経伝達物質が GPCR に結合することを直接的に防ぎます。したがって、特定の
GPCR の機能を調べる際、阻害薬を用いて標的とする GPCR の働きを止める「薬理学
的手法」が広く用いられてきました。しかしながら、優秀な阻害薬であっても、他のタンパ
ク質に結合してしまったり、代謝された分解物が意図しない作用を引き起こしたりする
「オフターゲット効果」が生じる懸念があるため、GPCR の機能を詳細に検証することは
困難でした。
そのため、薬の“オフターゲット効果”の影響を排除し、標的とする GPCR の機能を正
確に評価できる新たな技術が強く求められていました。
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【研究内容】
研究グループは、“阻害薬が効かない GPCR 変異体”を設計することで、薬のオフター
ゲット効果の影響を排除し、標的とするGPCRの機能を正確に評価できると考えました。
標的GPCRに結合した阻害薬は、本来の生理活性物質の結合を防ぐことでGPCRの働
きを抑制します。しかしながら、他のタンパク質に結合して意図しない作用(オフターゲッ
ト効果)が生じる懸念があります(図 1A)。一方で、特定の阻害薬だけがまったく効かなく
なる GPCR 変異体を用いた場合、標的とする GPCR への阻害効果は現れず、オフター
ゲット効果のみが浮き彫りとなります(図1B)。このように、野生型GPCRと阻害薬が効
かないGPCR 変異体を持つ細胞に対して同じ阻害薬を投与し、表現型(薬の投与による
細胞の変化)を比較することで、薬を投与した際に観察された現象が「標的 GPCR の働
きによるものか」、それとも「薬のオフターゲット効果によるものなのか」を見分けること
が可能になると考えられます。
(図1)薬理学的手法およびESCAPE法による標的GPCRの機能解明の概略図。(A)薬理学的手法。
(B)ESCAPE法。
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成果1.薬が効かない変異受容体を活用する新たなアプローチ「ESCAPE法」の開発
技術開発にあたり、GPCR本来の機能(生理活性物質への応答性)は保ちつつ、特定の
阻害薬だけがまったく効かなくなる GPCR 変異体の設計が求められます。しかし、一般
的に GPCR に固有の生理活性物質と人工的な阻害薬は、同一の「くぼみ」に結合するた
め、阻害薬だけが結合できなくなるGPCR変異体のデザインは困難でした。
そこで研究グループは、GPCR の一種であり重要な薬剤標的のアデノシン A2A受容体
(A2AR)を初期的な標的として設定し、GPCRに共有する構造特性に着目したA2AR変異
体の設計戦略を考案しました。多くの GPCR は、生理活性物質が結合する深い「くぼみ」
を持ちます。A2AR が属するアデノシン受容体サブファミリーにおいても、生体内に存在す
る生理活性物質である「アデノシン」がこのくぼみに結合し、細胞内に情報を伝達します
(図 2A,B)。一方、A2AR に選択的に作用する阻害薬は、その深いくぼみだけでなく、受容
体の上部に位置する“細胞外ループ”と呼ばれる特徴的な構造とも相互作用を形成します
(図 2C,D)。研究グループは、A2AR と他のアデノシン受容体サブファミリーのアミノ酸配
列を比較した際に、内因性の生理活性物質であるアデノシンを認識するくぼみ周辺のアミ
ノ酸配列はサブファミリー間で高度に類似する一方、“細胞外ループ”においてはA2ARに
特有のアミノ酸配列が存在することに気が付きました(図 2)。したがって、A2AR 選択的
な阻害薬は、A2AR に特有のアミノ酸配列を有する“細胞外ループ”と相互作用することで、
高いA2AR選択性を発揮すると考えられます。
(図 2)A2AR 変異体のデザインのための結晶構造およびアミノ酸配列相同性の比較。(A, C)アデノシ
ンおよびA2AR阻害薬であるZM241385の化学構造。(B, D)アデノシンおよびZM241385と
A2ARの複合体構造。A2ARと他のアデノシン受容体サブファミリーのアミノ酸配列を比較し、配列相同
性が高い(類似した)領域を暖色で、配列相同性が低い(A2ARに特有の)領域を寒色で表示している。
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そこで、体内の生理活性物質が結合する深いくぼみはそのまま維持し、A2AR 選択的な
阻害薬のみが相互作用する細胞外ループに対して、「他のアデノシン受容体サブファミリ
ーを模倣したアミノ酸変異」を施しました。この工夫により、設計した A2AR 変異体は、生
体内のアデノシンには正常に反応する一方、A2AR 選択的な阻害薬だけがまったく効かな
くなるユニークな性質を有することが確認されました(図3)。
この技術は、薬の副作用の懸念を回避し、標的GPCRの本来の役割を解き明かせるこ
とから、「ESCAPE 法」(extracellular-loop swapped chimeras activated
purely by endogenous ligand)と名付けました。さらに、この手法が他の GPCR
(アデノシンA2B受容体や、統合失調症などに関わるセロトニン2A受容体)にも応用でき
る、汎用性の高いアプローチであることを証明しました。
(図 3)“阻害薬が効かないA2AR変異体”デザインの概念図。設計したA2AR変異体は、生体内のアデ
ノシンには正常に反応する一方、A2AR選択的な阻害薬だけがまったく効かなくなる。
成果2.「ESCAPE法」を用いた神経突起の伸長メカニズムの解明
酸素が不足した環境(低酸素状態)に置かれた神経細胞は、細胞生存やネットワーク再
構築のために「突起」を伸ばすことが知られています。過去の神経モデル細胞を用いた研
究において、低酸素状態で細胞から放出される「アデノシン」が神経突起の伸長に関与す
ることが報告されました(図 4A)。さらに、A2AR 阻害薬を用いた薬理学的な実験におい
て、アデノシンが A2AR に結合して細胞内に情報を伝達することが、神経突起の伸長に重
要であると示唆されました。しかし、従来のA2AR阻害薬には、別のタンパク質(酵素など)
の働きも抑えてしまうというオフターゲット効果(副作用)が存在したため、低酸素状態で
のA2ARの働きと、神経突起伸長との関係性は明らかにされていませんでした。
そこで研究グループは、本技術「ESCAPE 法」を神経モデル細胞(PC12 細胞)に適用
しました。まず、野生型 A2AR、および阻害薬がまったく効かない A2AR 変異体を有する
PC12細胞を別々に用意し、低酸素状態で培養を行いました。その結果、低酸素環境下で
は、細胞からアデノシンが大量に放出されることが確認され(図 4B)、野生型 A2AR およ
びA2AR 変異体を有するPC12細胞、どちらにおいても神経突起の伸長を確認しました
(図 4C)。続いて、低酸素状態で A2AR 阻害薬(Preladenant)を投与した際、野生型
A2AR を持つ細胞では突起伸長が抑えられたのに対し、Preladenant が結合しない
A2AR 変異体を持つ細胞では、阻害薬であるPreladenantが存在しても突起が伸び続
けました(図4D)。これにより、アデノシンとA2ARの結合が、低酸素環境下での神経突起
伸長を直接引き起こしている主因であることを明確に証明しました。
さらに、神経の成長を促す代表的なタンパク質「神経成長因子(NGF)」との関係を解析
した結果、A2ARシグナルとNGFシグナルは互いに干渉することなく、独立した2つのル
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ートとして足し算(相乗)的に働き、神経の伸びを強力に後押ししているという細胞のメカ
ニズムを解明しました(図4E, 図5)。
(図 4)「ESCAPE 法」を用いた神経突起の伸長メカニズムの解明。(A)神経成長因子および低酸素環
境下における PC12 細胞の神経突起伸長の模式図。(B)通常状態および低酸素状態での、PC12 細
胞から放出されたアデノシン濃度の定量結果。(C,D)左:各条件における PC12 細胞の共焦点顕微鏡
を用いた観察画像、右:神経突起の伸長度合いの定量結果。(E)神経突起伸長の定量結果。
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(図 5)低酸素環境下におけるアデノシンと A2AR および神経成長因子受容体の神経突起伸長への関
与を表す概念図。A2AR シグナルと神経成長因子受容体シグナルは互いに干渉することなく、独立した
二つのルートとして相乗的に働き、神経突起伸長を強力に後押ししている。
【成果の意義】
本研究で開発した「ESCAPE法」は、GPCRの機能解析において従来の実験手法が抱
えていたオフターゲット効果の課題を克服する技術です。全医薬品の約 3 割が特定の
GPCR を標的とすることを考慮すると、狙った GPCR の働きを詳細に解析できること
により、今後さまざまな波及効果が期待されます。
1)基礎研究・生命科学への貢献:
これまでタンパク質の役割を調べるには、①特定タンパク質の遺伝子を欠損させる、遺
伝子ノックアウトに代表される「遺伝学的手法」か、②標的タンパク質に作用する薬を投与
する「薬理学的手法」が主流でした。しかし、ノックアウト法は生体が別のルートでタンパク
質の機能を補い、標的タンパク質の本来の働きが判別できなくなる「遺伝的補償」という
課題があり、阻害薬では「薬の思わぬ副作用(オフターゲット効果)」という問題がありまし
た。
ESCAPE 法は、薬の「狙った瞬間に素早くタンパク質の働きを止められる即効性」と、
遺伝子工学的な技術の「狙ったタンパク質だけを制御可能な標的選択性」を融合させ、高
精度なタンパク質の機能解析を可能としました。本研究では、がんや炎症性疾患、パーキ
ンソン病などの薬剤標的であるアデノシン受容体(A2AR および A2BR)や、統合失調症や
うつ病などに関わるセロトニン受容体(5-HT2AR)を用いてESCAPE法の有用性を実証
しました。ESCAPE 法は、これに留まらず、幅広い受容体への応用が可能です。さらに、
ゲノム編集技術と組み合わせることで、生きた動物の体内レベルで、特定の細胞種に発現
する標的GPCRの機能を正確に解読できるようになれば、生命科学に貢献することが期
待されます。
2)創薬研究への貢献:
新薬の開発現場では、一見効果があるように見える候補化合物が、実は「標的の受容体
ではなく、別のタンパク質に作用していた」というケースが少なくありません。過去には、
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臨床試験や薬剤の上市後に“隠れた副作用”が発覚し、開発中止や撤回に追い込まれた薬
も存在します。
開発初期の段階で ESCAPE 法を用いることで、候補化合物が本当に狙った受容体に
作用し、薬効を発揮しているのか正確に評価できます。予期せぬ副作用リスクを事前に排
除できるため、開発の失敗コストを抑え、創薬研究の確度を高めることに貢献することが
期待されます。
以上のように、本技術は基礎研究における利用にとどまらず、創薬研究を加速させる
技術としても有用であると考えられます。