人文社会系 五十嵐 沙千子 准教授
西洋哲学の原点はソクラテスです。五十嵐さんによれば、ソクラテスが求めたのは「汝みずからを知れ」。大人は「自分のことも世間のこともわかっている」と思っています。ところが大人が「わかっている」と思っていることの多くは、実は「単なる思い込み」にすぎません。それなのに大人は、「いや、これが真実だ」と言うのです。なぜなら「みんながそう言っているのだから」と。「真実ではない」ものを「真実だ」と集団で思い込み、それに縛られ、他人をも縛り、あげくの果てに自分の身動きが取れなくなっているのです。
ソクラテスは、「真実だと思ってしがみついているものはすべて幻」であり、「ほんとうのところ自分は何もわかっていない」ことを「知れ」と言ったのです。それをみんなにわかってもらいたくて、ソクラテスは毎日のように市場に出かけ、「どうしてそう思うのか」「その根拠は何か」「もしそうだとしたら」と問いかけました。自分と向き合うよう迫られた大人は腹を立て、ソクラテスを嫌いました。「揺るがされた」からです。それでも対話の中でだんだん自分の「思い込み」を自覚し、「幻への囚われ」に気づき、その「囚われ」を脱いでいきました。囚われの鎧を脱いで身軽になって初めて、大人たちはやっと深く息が吸えるようになったのです。
人はそうやって「自分であること」を取り戻すと、五十嵐さんは語ります。それがきっとその人の「ほんとうの誕生」なのでしょう。ソクラテスの対話が「産婆術」と呼ばれたのはそのためです。でもそのせいで、ソクラテスは死刑になりました。「共同体の常識をひっくり返した」からです。「囚われ」の鎖を切り、重い鎧から大人たちを自由にした罪で、ソクラテスは死んだのです。
五十嵐さんの専攻はドイツ現代思想、なかでもハイデガー、ハーバーマスが専門です。ドイツ現代思想と古代ギリシャ哲学、決して遠い関係ではないそうです。ハイデガーは「世人」という言葉を使います。「世間」を気にして浮かないように、外されないように、世人(大人)はみんな不安の中で生きている。それで楽しいわけではないが、生き延びなければならない。だから世人は息を殺して世間向けの着ぐるみを着て窮屈に生きている。でもそれでは、ほんとうの自分の人生を生きているとは言えない。ではどうすればいいのか? これが、ハイデガーがソクラテスから引き継いだ問いでした。ハイデガーは、大人が落ち込んでいる「世界」の構造を明瞭に分析し、自分が投げ込まれている檻を自覚し、その檻から抜け出すための「勇気」を持てるように思想を展開しました。これに対し、ハーバーマスはさらにソクラテスに戻ろうとします。自由になるためには「対話」が必要だというのです。対話の中でそのつど他者といっしょに古い鎧を脱ぎ捨て続けていく以外に、自分が自由になり、幸福に生きる可能性はない。そしてそうやっていっしょに新しく誕生していく仲間こそがほんとうの「友」=「共同性」なのだと、ハーバーマスは考えたのだそうです。
自分との対話は、共同体に刷り込まれた自分との対話であり、自分が隠してきた小さい違和感を感じ、自分を発見することにつながります。その過程では共同体との衝突も起きることでしょう。自分の居場所がなくなるかもと怖くなるかもしれません。でも、そこで共同体と折り合いをつけることは自分を殺すこと、自分を探す対話の道を諦めることは「よく生きること」を放棄すること、哲学の死なのだと、五十嵐さんは語ります。
五十嵐さんは、子供の頃から「お嬢さんらしく」という鎧を押し付けられることにずっと反発してきたそうです。哲学者になったのも、ハイデガーやハーバーマスの研究者になったのも、大学の授業で「哲学学」ではなく「問いと対話」の「哲学」を続けているのも、「自由になるため」でした。「ソクラテス・サンバ・カフェ」と銘打った哲学カフェを2009年から展開するようになったのも、古い自分の鎧を共に脱ぎ捨てていくことの楽しさをみんなと分かち合うためです。五十嵐さんはそれを、「哲学は、まだない答を共に探しにいく冒険」なのだからと表現しています。
五十嵐さんのモットーは、「人生とは今日を生きること」だそうです。「新しい朝が来た♪ 希望の朝だ」という『ラジオ体操の詩』も大好きと語る五十嵐さんは、いろいろな場所で様々な人と哲学の冒険を今日も続けています。
(筑波キャンパスでのソクラテス・サンバ・カフェの一コマ。誰でも参加自由で、参加者は全員がニックネームを名乗る。
語り合うテーマも、たとえば「自分の気持ちを表に出せないこと」「働くのがつらいとき」「自分とは何か」「どう生きればいいのか」
「家族が死んだとき」など)