システム情報系 羽田野祐子准教授
転機は留学先のハーバード大学でロシア出身の研究者と出会ったことでした。1995年のことです。その研究者は,チェルノブイリ原子力発電所事故によって大気中に放出された放射性物質濃度の,10年余りにわたる実測データを持っていたのです。
大学では原子力工学を学び,高レベル放射性廃棄物などの環境動態を研究していました。たとえば地下水汚染物質の移行を予測するモデルを構築し,シミュレーションを行うといった研究です。しかし,シミュレーション結果との比較に使えるような長期の実測データはほとんど手に入りません。もちろん,汚染物質漏出事故など起きないにこしたことはないのですが,そうした事故や,原子力発電所廃棄物の地下貯蔵などに備えた研究は重要でした。
そんなジレンマを抱えていたときに出会ったのが,チェルノブイリ周辺の長期実測データでした。これを使えば,実測データの解析に基づく予測モデルの構築が可能となります。チェルノブイリ原発事故では,原子炉爆発とそれに続く火災により,放射性物質を大量に含む煙が発生しました。煙は風に乗って広がり,各地に汚染物質を運びました。そしてさらに,雨が降って地上に落下したものも,風に巻き上げられて空中を再浮遊しては地上に落下するということを繰り返しました。
チェルノブイリ周辺では,事故後,半径30km圏内で大気中の放射性物質の濃度が測定され続けました。それが,羽田野さんが出会ったロシア人研究者が所有していたデータだったのです。そのデータは,原子炉が石棺で覆われた後も,放射性物質の濃度は日々変動を続けてきたことを物語っていました。その時々の気象条件,あるいは交通や工事などの人為的条件によって再浮遊の起こり方は変わります。その結果,大気中の濃度も変動するのです。しかし,そうした条件を事前にすべて予測するのは,事実上不可能です。あまりにも多くの要素が関係するからです。
ところが,チェルノブイリ周辺で10年間にわたって観測された放射性物質の大気中濃度の変動データを解析すると,短期間の変動パターンが長期変動パターンのおおよその縮図(相似形)になっていることがわかりました。これは数学でフラクタルと呼ばれるパターンです。この性質を応用すれば,短期のデータを用いた長期予測の可能性が開けます。
留学を終えて帰国した羽田野さんは,フラクタル解析を応用した長期変動データの研究に本格的に取り組みました。その結果,実測データにとてもよく適合する方程式を得ることができました。この手法は,大気中の汚染物質の拡散だけでなく,土壌汚染や地下水汚染など,自然界における様々な物質の移動に適用できることもわかってきました。そんな目処が立ったときに起きたのが,福島第一原子力発電所の事故でした。
福島第一原発事故をめぐる多くの課題は未だ完全に解決する見込みが立っていません。大気中に放出された放射性汚染物質に関しては2年余りの実測データがあるわけですが,シミュレーションなどによる従来の方法では,今後の長期にわたる動態を予測することは事実上不可能です。しかし,チェルノブイリのデータで見通しがついた,フラクタル理論を応用したモデルを作成して放射性物質の今後の挙動をおおまかに予測することは可能です。ただし,放射性物質と一言で言っても,いろいろな種類があります。元素によって,重さも半減期(放射性崩壊を起こして量が半分に減るまでの期間)も異なります。したがって,個々の放射性元素についてそうした条件を加味したモデルを作成する必要があります。
それまでの研究が実地に役立つ日がまさかこれほど早く来るとは思っていませんでした。福島原発事故後,羽田野研究室に加わった学生のなかには,大震災被災地や関連地域出身者が5人います。研究室のメンバー全員,責任感に燃え,意欲的に研究に取り組んでいます。
(文責:広報室 サイエンスコミュニケーター)
※図1:
図形の一部を取って拡大すると,もとと同じ図形(すぐ上の図形)になる性質をもつ図形をフラクタル図形(コッホ曲線)と呼ぶ。データの変動の仕方(曲線)にもフラクタルな性質があれば,「短期間 の実測値」の性質を拡大し延長することで「長期後の予測」が行える可能性がある。
※図2:
フラクタル理論を仮定し,初期のセシウム137の大気中濃度を1としたときの最大減衰(緑の曲線)と最小減衰(赤の曲線)の予測。減衰の早さの最大・最小は,チェルノブイリの実測値からの推測値を用いている。