大石和彦教授(ビジネスサイエンス系)
国の基本的な仕組みを定める憲法 。その解釈や改正を巡る議論は折に触れて話題になります 。また最近では、選挙や相続などさ
まざまな格差・不平等に対する憲法判断も社会的な関心事となっています。しかし多くの人にとって、憲法そのものについて学んだり
考えたりする機会はなかなかありません。憲法は観念的な存在でありながら、現実の国民生活の基盤となるものです。ビジネスサイ エンス系の大石和彦教授は、観念と現実との狭間にある憲法の本質を探究しています。
近代立憲主義と憲法
法によって国家権力を縛る、という近代立憲主義の基本発想に基づいて考えると、人権が保障され、民意を根本においた統治(民主主義)や権力の分立が明確に詔われている日本国憲法は「良い憲法」だと言うことができます。しかし、法というのは社会を動かすソフトウェアのようなもの。人聞がプログラミングするのですから、当然「バグ」もあります。憲法にもバグはあって、規定されていない部分や解釈に幅のある表現が含 まれています。
それでも日本国憲法はこれまで一度も改正をされませんでした。国家の基本となる法を変えるというのは重大なととです。諸外国では何度も憲法が改正される例もありますが、ほとんどの場合 、その内容は手続き規定などの軽微なものにとどまっていま す 。アメリカでは 、2 0 0 年以上の憲法の歴史の中で20数回の改正が行われたものの、大きな改憲は、南北戦争を経て平等権条項(奴隷制の廃止)を追加したことと、第一次世界大戦後に女性の参政権を認めたことぐらいしかありません。国民同士が血を流すような惨事や、国を二分するような大論争がない限り、憲法とは原則的に変わらないものだというのが、憲法学の基本的な見方です。
憲法学の作法
憲法学は基本的に「考える」学問です。自然科学のように、データを蓄積して理論を組み立てたり、実験によってそれを検証するとと はできません。ある説が唱えられると、それが 実社会に適用された場合に起こりうる矛盾 点などを探して、古典的な学説や過去の判例などをもとに論戦が繰り広げらます。それに耐えて残ったものが通説として定着していきます。これらの通説は、新しいものに淘汰されたり、時代とともに進歩するのではなく、そのままで妥当性が保たれることも少なくありません。ですから、現代の新しい問題に対して何世紀も前の古い学説が引用されることも珍しくありません。むしろ最新の問題、例えば、クローン技術の規制は学問の自由を侵害すると とになるか、というようなテーマを、古典的な視点から議論するところに憲法学の醍醐味があります。哲学の分野で、いまだにソクラテス やプラトンが研究されているのと似ています。
理想的な憲法ならば世界中で共通のものになってもおかしくないようにも思えますが、各国の憲法にはそれぞれの歴史やお国柄が反映されています。そのため、同じ近代立憲主義の下で作られた憲法でも、固によって異なる内容が規定されているのです。それでも、基本的人権は普遍的な概念であり、最近では、海外の憲法や判例が日本の憲法判例にも引用されるようになってきました。公務員の政治活動への参加や、非嫡出子の相続権の平等化など、それを認めることでもたらされる社会秩序への影響などを、欧米の事例をも参照しつつ、論じることができます。
静かなるビッグヒート
このような手法で営まれる憲法学は、新たな発見やブレークスルーによって飛躍的に研究が進むような分野ではありません。現行の憲法の範囲で、その時々に起こるさまざまな問題の解決となるような解釈を探っていく営みだともいえます。万人が納得できる唯一の正解がない中で、社会の動向なども 踏まえて、人々に最も受け入れられる最適な解決策(落としどころ)を提示します。憲法学者の長谷部恭男数授が「憲法学は芸である」と寄っていますが、新旧の学説や判例を駆使して論拠を構築する作業は、確かに一種の 「芸」のようなものかもしれません。
最高裁判所は判例という形で、条文の曖昧な部分に具体的な意味づけをしていきます。それに対してさらに研究者の考察が行われる。そのプロセスには、芸事のような側面はあっても、この社会のしくみを決める熱い議論があります。
法を通して国家を理解する
戦争によって何千何万という人が命を落とす。その戦争は国と国の間でおこります。 つまり、国によって人の命が奪われる。そのようなことをしてしまう「国」とは何なのか、中学生の頃に抱いた素朴な疑問が憲法学へ進む原点となりました。国家のルール、国家権力を縛る法が憲法だからです。
法は、条文として存在はしていますが、その意味は観念的なものです。その法によって、国家が戦争をおこしたり、刑事罰を科したり、税金を徴収したりします。考えてみれば、人の命や財産を奪うという点では、犯罪と何ら異ならないとも言えます。しかし私たちはこれを適法行為として受け入れています。それは私たちが法を通して国家の活動を理解しているからです。法とは無縁に暮らしていると思っていても、潜在的に法から逃れることはできないのです。
実は、最高裁判所の裁判官に限っては、内閣に任命されれば司法試験を受けなくてもなることができます。最終的な憲法判断には、より広い知見を反映させることが重要だからです。裁判員制度が導入され、一部の法的判断には市民の知見が取り入れられるようになりました。難解な議論の多い法の世界ですが、私たちとの距離は近づいています。